Skip to content
Mae La Luang
1. 13 Apr 1943: IJAAF Ki-45 crash landed at Mae La Luang
2. Supplemental: 13 Apr 1943: メーラルアン村に不時着した日本軍機

Cherdchay Chantawan, Japanese military aircraft that crash landed in the village of Mae La Luang (based on numerous interviews) in original Japanese language.

メーラルアン村に不時着した日本軍機1

メーラルアン小学校はクンユアムの日本軍部隊の休憩地だった。たとえばメーサリアンに行く時、またチェンマイに行く時やターク県などに行くときに度々使用された。日本軍部隊が来るという予定の日は、事前に連絡されて学校は休みとなった。昭和18年の6月~7月のことだった。この日の午後、メーラルアン小学校の生徒たちはいつものように教室で授業を受けていた。この時、飛行機の爆音が聞こえてきたが、それは益々大きな音となってきた。みんな窓から顔を出して空を見た。ビルマから飛行機がこちらに向かってくるぞと生徒たちは大騒ぎになった。先生は生徒たちに、急いで外に掘った穴に隠れるようにと声を上げて指導した。みんな夢中で逃げて隠れた。

少したって空を見上げた。同じ型の飛行機が三機並んで飛んでいた。真ん中の機体からは黒い煙が出ていた。この仲間を助けるように両脇にくっついたように飛んでいた。

音が出たり消えたりして、エンジンが故障したようだった。フォイパーファーは学校の近くの田んぼが広がる地域だが、ここに不時着しようとしていた。脇の二機がゆっくりと離れ、故障した飛行機はそのまま着陸した。地面がでこぼこだった為に機体はごろんごろんと転がった。何回か転がった後に小川の手前で止まった。村人と先生、生徒は我を先と走って見に行った。パイロットは前席と後席の二人いた。この時二機の飛行機は上空を旋回していた。一人パイロットが出てきて日本の国旗を村人たちに向かって振ってきた。助けてくださいといった感じだった。村人は怖がって、離れて見ているだけだった。パイロットは飛行機に戻り、今度はタイ国旗を振りはじめた。警察と村人はすぐにパイロットに駆け寄った。

パイロットの二人とも大きな怪我ではなかった。また言葉は全く通じなかった。パイロットは田んぼの休憩小屋の屋根の葉を取り、それを並べて地面に大きく字を書いた。上空の仲間に無事を知らせたようだった。二機はチェンマイ方面に飛び去って行った。その後、村人は二人をメーラルアンの診療所につれて行った。いま診療所はワットシーラーパー近くにある。

次の日の朝10時くらいだった。チェンマイ方面から日本軍機が飛んできて、二人の為に荷物をパラシュートで降ろした。その次の日、クンユアム郡警察官ジャン・チャオプラユーン署長と元弁護士のサヌーン・ガンタータン氏とメーホンソンの県議員がパイロットと共に現場に立ち会った。サヌーン氏はパイロットに英語で話しかけたが、この搭乗機の損傷は激しく、再び飛び立つ事は不可能だった。メーサリアンの日本軍基地から応援が来て、この機体から重要部品を取り外して持ち帰った。更に次の日、同じ部隊が来てエンジンを取り外し、機体を分解してメーサリアンの基地まで運んだ。これにはタイ人が雇われ協力した。メーサリアンまで7~8日かかった。メーサリアン基地まで運ばれた機体は丁重に処分された。兵士たちはこの機体に黙祷を捧げた。最後に火炎放射器で機体は火に包まれた。戦後、この残骸の部品やアルミニウムなどは村人が持ち去った。


KAWASAKI K-45 “屠竜”(DRAGON KILLER)

筆者は取材中にメーラルアンの警察官から、この機体の部品であるアルミニウムの板一つを譲り受けた。これは叩くととても良い音がしたので、クンユアム警察ではチャイム代わりに使用した。錆び一つ無いとても優れた材質だ。これを専門家に調べてもらったところ「FIRE WALL」だった。エンジンの熱を遮断するための部品だった。プロペラもこの時まであったが、今ではどこかに持ち去られてしまった。

 この二人のパイロットはメーラルアン村に2ヶ月くらいいた。この2ヶ月の間に何度か飛んできて、降ろされたパラシュートの物資で生活していた。

 ソンサン・タイロンパティー氏、今は70歳の話。氏は当時小学生だった。この二人のパイロットと仲良くなった。パイロットはジャングルでの必需品や、薬、缶詰、服、食糧、お菓子、など持っていたが、お菓子などは子供たちに分けてくれた。そして一番大切なものは釣竿と餌だった。餌は疑似餌だった。これらを見て、日本人はこの戦争の為に大変な準備をしているなと村人は皆感心した。

 この日本兵と村人の交流に何の問題もなかった。子供たちとは良く遊んだ。水泳を教え、魚の取り方を教えた。料理を作っては食べさせた。持っている薬は、村人や子供が病気になれば差し出した。日本語を教え、自らはタイ語を学んだ。パイロット二人は、村の人気者になった。

 別れの日。パイロットは、自分たちの持っている物すべてを村人と子供に渡した。今でも何人もの村の老人はこのことを記憶している。この飛行機は土の下に沈んでしまい今は蔭も形もない、しかしこの日本軍機の不時着とそのパイロットとのひと時の交流は、村人の懐かしい思い出として残っている。

(原文タイ語日本語訳文責 武田浩一)

 

この「メーラルアン村に不時着した日本軍機」は、POL LT COL CHIEDCHAI CHOMTAWAT 氏が長年の聞き取り調査等により纏め上げた労作であり実話です。
「屠竜」搭乗のこの二人をご存知の方は、ぜひ当ホームページ管理人までご一報ください。

 

Last Updated on 1 March 2024

Back To Top
Translate »